温室ぶどうの栽培のあゆみ | ||||
明治 | 8年 | 大森熊太郎、山内善男は栢谷の官林の払い下げを受け、果樹栽培を始める。 | ||
11年 | 二人は、アメリカ種の苗五百本を購入して栽培する。収穫して醸造を試みるが失敗する。 | |||
17年 | 播州ぶどう園からヨーロッパ種のぶどう四品種二百本を導入する。 | |||
19年 | 山内善男は、幅九尺、長さ十八尺の片屋根式ガラス温室を建てる。 | ![]() 山内善男の原始温室 | ||
21年 | 温室ぶどうが初収穫される。 | |||
23年 | 第三回内国勧業博覧会に出品した大森熊太郎のぶどうが一等有功賞、山内善男はぶどう酒、影山一郎はせんてい鋏を出品して褒状を受ける。 |
![]() 第三回内国勧業博覧会 に出品したぶどう | ||
40年 | 土管を利用したオンドル式加温が始まる。 | ![]() オンドル式加温 | ||
大正 | 4年 | 山内善男が主催して、祖山会が結成される。 | ||
10年 | 安井嘉寿太がグロー・コールマンの栽培を始める。 | |||
15年 | 斉藤喜八が水温式加温釜を静岡県浜松より移入する。
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![]() 水温式加温 | ||
昭和 | 3年 | 出荷前の品質検査が始まる。 | ||
4年 | 国鉄の客車での手荷物輸送が始まる。百五十匁の箱四個を一梱包とした。 | |||
6年 | 国鉄での貨物輸送が開始される。 | |||
9年 | 個人への荷割をして出荷するようになる。 | |||
11年 | 温室ぶどう栽培指針が作成される。 | |||
12年 | 単幹コルドン仕立から大木仕立に順次改善される。 | ![]() 単幹コルドン仕立 | ||
14年 | 岡山県温室ぶどう栽培研究会が発足する。 | |||
24年 | 岡山県温室園芸農業協同組合が設立される。 | ![]() 大木仕立 | ||
25年 | 加温栽培が復活する。 | |||
31年 | 昭和天皇、皇后両陛下が岡山市栢谷、中桐与四一の温室を視察される。 岡山駅にマスカット娘が登場、販売に従事する。 |
![]() 昭和天皇・皇后両陛下 | ||
32年 | 岡山県第一回温室ぶどう品評会が開催される。 基芽せん定、多回数かん水が提唱される。 | |||
33年 | 温室ぶどう創始者顕彰碑、原始温室が復元竣工される。 | |||
35年 | 急行列車での温室ぶどうの輸送が始まる。 | |||
37年 | 重油バーナーによる加温栽培が始まる。 | |||
41年 | 温室ぶどうのトラック輸送が本格化する。 | |||
42年 | 第二回温室ぶどう品評会が開催される。 | ![]() 常陸の宮御夫妻(昭和42年) | ||
45年 | 出荷用化粧箱を外装箱に収めるように改善される。 | |||
47年 | ガラス温室が単棟式から連棟式へと大型化する。 急傾斜棚から緩傾斜棚に、また平棚に変わり始める。 |
![]() 連棟式温室 | ||
49年 | 第三回ぶどう品評会が開催される。 | |||
50年 | 大型軽量鉄骨アルミガラス温室の建設が始まる。 | |||
52年 | 経済連総合流通センターへ出荷が一元化される。 | |||
53年 | 出荷容器にパック詰めも採用され、多様化される。 | ![]() パック詰 | ||
55年 | ウイルスフリー(無病)化事業が始まる。 | |||
59年 | 出荷容器のデザインが改善される。 | |||
60年 | 温室ぶどう栽培百周年記念行事が開催される。 | |||
平成 | 元年 | 出荷容器に一房詰めが採用される。 | ||
2年 | 出荷一梱包が十二キロから八キロになる。 | |||
3年 | 第一回津高ふれあいマスカットまつりが日応寺自然の森スポーツ広場で開催され、以後継続される。 | ![]() マスカットまつり | ||
4年 | 温室ぶどう関係資料の収集が始まる。 | |||
5年 | 第四十回全国ぶどう研究大会が開催される。 | |||
7年 | マスカット音頭が創作される。 マスカット広場が整備される。 |